小説042『そして……美樹の朝』


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小説042『そして……美樹の朝』

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暗い淵から浮かび上がる感覚。目を覚ますときはいつもそうだ。心震わす夢。その中から浮かび上がる。高々自分の経験の要素組み合わせに過ぎない夢から、無限の現実へと。

うっすらと目を開ける。いつもの自分の部屋。いつもよりもずいぶんと片づいている。なによりも、広々と床が見えている。少しだけ落ち着かない。そして、今日は雨音の替わりに小鳥の声。窓を開けるとそこに見えるに違いない電線に並ぶ雀の声。

相も変わらず故障したままのビデオデッキへと視線をやる。まぶたを開き直す。6時34分。遅くもなく、早くもない。普通の朝。

「おはようございます」

頭上の雰囲気を察して先に声を掛ける。

「おはようございます。美樹さん」

ふみさんが挨拶を返してくる。その声を聞きながら、ゆっくりと身体の上の厚手の掛け布団をのける。

久しぶりの、普通の朝。10日ぶりぐらいだろうか。

上半身を持ち上げると、後ろから琴さんが挨拶してくる。

「おっはよ、美樹。ねぇ、すっきりとした気持ちいい空っ」

その言葉に、仕草が見える。すっきりと晴れるのも、気持ちがいい。南向きと、西向きの窓からは、朝日は拝めない。だが、晴れた朝が心地よくないわけがないのも確かだ。空気が引き締まった感覚。

「おはようございます。琴さん」

答えながら振り向く。晴れている日は琴さんはたいていベランダにいる。だから見えない。見えない琴さんを通り抜けると、後は成層圏まで何も遮る物がない青空。

今日も、何かいい事がありそうだ。心弾む、何かが。

「本当に、いい空ですね」

思わず立ち上がっている。右肩の包帯の下をかばうように、少しだけ気をつけている。ちゃんと掃除機をかけたフローリングからは、どこか違う足触り。一歩。決して広いとは言えないベランダと室内とを隔てている網戸に手をかける。少し浮かせるようにして開ける。書棚にいる卵の宮を連れだす。大学に入ったときに買って……外歩きの用には立たなくなってしまったブルーのサンダルの上に右足を降ろす。

まだ、いつもより行動を慎重にする癖が残っている。右足首の捻挫はもう直っているのに。

早朝の街並みは、そろりそろりと目覚めだしている。叡山電鉄の走行音が、雀達をざわめかせる。眼下の通りを右から、左から、思い出したように通り過ぎていく。

いつまで見続けていても、見足りない空。街並み。まだ、見ていないものがたくさんある。読んでいない本がたくさんある。感じていない空気の粒子がたくさんある。南向きのベランダだから、ちょうど地平線の方向に、吹利の街がある。あるはず。

「美樹さん。病み上がりなんですから」

部屋の中から、ふみさんが呼ぶ。自分に苦笑を浮かべる。

とりあえず動けるようになったと決めた日に、晴れる。それだけで、少し昂揚しすぎてはいないですかい、美樹?

「はい」

返事をして、室内へと戻る。

まだ、パジャマのままだ。枕元に、きっちりとたたんで置かれたワイシャツと洗い立てのジーンズ。新品の下着。靴下。着替えセット一式。

卵の宮を書棚に返す。少しだけ、向こうを向いていてもらう。

「ふみさん、琴さん」

一応、下着まで換えるときは、一言断る。こちらから見えないので、一拍待つ。

汗が染み込んだパジャマと下着を脱ぐ。新品の下着を身につける。ジーンズに足を通す。洗い立ての布が、肌を包む感触。ベルトを、軽くだけ締める。

「いいです」

二人にそう告げる。卵の宮がくるりと書棚の上でまわる。室内を懸命に見据えている。ふみさんが、手助けしたのだろうか。

机の上の消毒セットと滅菌ガーゼに手を伸ばす。布団の上に胡座をかく。身体のあちこちの内出血もだいぶん消えたし、小さな擦り傷の瘡蓋は自然に落ちだしている。

適当な長さに、テープを切ってティッシュペーパーの箱の隅に貼り付けておく。とりあえず、6本。

新品の袖無しシャツから突き出している自分の貧弱な肩。右肩の昨日の晩抜糸したばかりの傷を被うガーゼ。縦横3本づつのテープを外す。テープを外しただけではガーゼは落ちない。剥がす。擦り傷特有の細かな傷跡を従者のように引き連れた盛り上がった瘡蓋。茶褐色の消毒液に、市販の綿棒を浸す。傷の本体は右肩のやや後方なので、左手で消毒をするのは結構やりにくい。もともと左手は器用な方ではないのだ。麻樹は左利きだが右手でも鍼を打てるらしい。……まぁ、わたしの右手が器用だなどとはとても言えないのだが。

それでも、何度か消毒液の容器と傷の上を綿棒が往復するうちに、瘡蓋の周りをくまなく消毒液が被う。

滅菌済みの状態で一枚ずつ個包装のパックに入っているガーゼの包みを、傷口サイドにする側を物に触れさせないように開ける。

ガーゼを傷口に当てる。ガーゼは消毒液をわずかに吸って、傷口の上にへばりつく。ガーゼが落ちないうちに、ティッシュペーパーの箱に貼り付けて置いたテープで留める。昨日の朝、麻樹がやっていったほど上手くは行かなかったが、まぁ、剥がれたりはしないだろう。うむ。まぁ、今日一日保てばいい。どうせ明日また張り替えるのだから。

アイロンと、糊の利いた半袖のワイシャツ。袖を通す。喉仏の前のボタンから下へ、全部のボタンを留める。シャツの裾をズボンの中にキチリとしまい込む。ベルトを締め直す。一番締まる筈の穴で、まだ少し緩い。気になるほどではないが、またベルトを切って調整しなくてはならないかもしれない。

あごを撫でる。体調が良かろうと悪かろうと。髭は、伸びる。

ふみさんの準備する、香草茶の香りが鼻腔をくすぐる。

扉の外で猫の鳴き声がする。

一階の猫達が茶に魅かれて遊びに来たらしい。

「あ、シロ? それともクロ?」

琴さんが扉の方へと動いた気配。あの猫達には見えるのだろうか? わたしにしか見えないことになっている幽霊が。

「あ、美樹さん、香草茶が入りましたよ」

台所からふみさんが、ティーポットとティーカップ、そして焼き立てのトーストを運んでくる。トーストの香ばしい香り、溶けたバターの香り、いつもとは違う、新しい調合の香草茶の香り。

財布。カード。運転免許証に部屋と研究室の鍵束。中学の時から使っている金網製の鉛筆入れ。自分の名前の印鑑。消しゴムを二つにポケットティッシュ。まとめて置いてある机の上から、いつもの持ち物をいつもの場所へと収める。

最後にベルトの定位置に腕時計を通す。生活防水と行ってもまぁ莫迦に出来た物ではない。水も入った様子もなく、ちゃんと動き続けている。

そうこうするうちに、ふみさんが、お茶の配膳を終えている。

「そろそろ、いただきましょうか」

そう言いながら振り返る。

「みゃーぉ」

紙皿の中のぬるくしたミルク入りの香草茶を前に待っていたらしいシロが、催促するように鳴く。

「はいはい」

ふみさんが、シロの背を撫でて上げている。

わたしは、自分の席に腰を下ろす。良い香りを立ち昇らせている四つのティーカップとわたしの分のトースト。幽霊は、パンを食べない……らしい。

皆が頂きますの挨拶をした後で、パンを一口、香草茶を一すすり。安心できる味。幸せになれる香り。

「今日はどうなさるんですか?」

ふみさんが尋ねる。

「そうですね。とりあえず吹利に行って、みなさんにお礼とご挨拶ですか」

ご迷惑をかけてしまった大家氏、余計な心配をさせてしまったベーカリーの面々、そしてもちろんユラさんに。

一週間の間、無沙汰をしてしまった研究室にも顔を出さなくてはならないし、遅れてしまったバイトの約束も取り付け直さなくちゃならない。麻樹が押し付けるように置いていった十万もきっちりかえさなきゃならない。それに、今回のお礼に何か良い物も捜しておかなくては。体調を見ながらでもゆるゆるとバイトで稼がないと。

ティーカップの中の最後の一滴を飲み干す。

「ごちそうさま」

そう言って、立ち上がる。出発まで、部屋の中に風を通そう。

台所を抜けて、扉を開ける。初夏の風と、太陽光線が舞い込む。

新しい陽射しに………わたしは目を細めた。

                        (おわり)

時系列

1998年6月28日。小滝ユラの誕生日から10日後。

解説

小滝ユラの誕生日に、プレゼントを渡しに行ったあげくに雨に打たれてぶっ倒れた美樹の後日譚。


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