わたしの存在をわたしはあまり信用していない。それをいうのならば、わたしの二人の同居人、ふみさんと琴さんの方がよっぽど存在としてはしっかりしているのではないか……そんなことを考えてみたりする。彼女らは霊体だ。ゆえに、現実にはあまり干渉しようとはしない。
わたしも自分の存在を信用していない。ゆえに、現実を変容させることを恐れている。傷つけないこと。それがもっとも大事なこと。何かを傷つけることはとても悲しいこと。
不注意で、枯らしてしまった鉢植え。床に落ちて砕け散ったマグカップ。そんな物思いにふけりながら、歩く。
吹利の街は、優しい。そうも思う。実家の、過干渉な優しさ。吹利の、一見無愛想な優しさ。今思えば、実家のあの空気は、要は田舎であるというだけのこと。
ふと、立ち止まる。いつの間にか、目的地の本屋、瑞鶴の前まで来ている。どんなに深い想いの中に沈み込んでいても、書店の前を行き過ぎることだけはない。
少しだけゆがんだ、灰色のゴムマットを踏む。涼しい……どんなクーラーを使っているのか、さわやかな風が体を包む。少し、鼻を鳴らす。この薫りは……春?
そのまま、医学書の棚へと向かう。少し、眉をひそめる。求めている書物は、平積みの下の引き戸の奥にある。まさか、店員でもないのに引き戸の中を勝手に漁るわけにはいかない。
「すいません」
女性の店員に、声をかける。穏やかな雰囲気の、女性。わたしと同じか少し年下か。
「はい、なんでしょう?」
彼女が近づいてくる。
「少々古い本なんですが、『在満寄生虫便覧』という本を捜しているんですけど」
そう尋ねながら、思い出す。そういえば、この女性はいつもはレジに座っている女性ではなかったか。
「はい、こちらですね」
望んでいた通りに、彼女は引き戸の中からその本を取り出してくれる。
「ありがとうございます。すいません、お手数をかけまして」
礼を言いながら、彼女からさほど分厚くもないその書物を受け取る。
「いえ、おさがしの本がありましたら、いつでもお申し付けください」
そう言って、彼女は書棚のむこうに消える。わたしは、わたしが求めていたと同じように、その書物がわたしを求めていたことを感じる。
わたしはレジに向かう。今日のレジは少し年かさの男性。まだ、中年というのは酷か。古い本なので、定価は異常に安い。少し気がとがめるが、レジの男性はその定価でよいという。わたしは千円札一枚でその書物を手に入れた。
少し、腹ごしらえでもしていこうか……そう思ったわたしは、馴染みのパン屋へと歩を進める。パン屋の向かいに見知らぬ店が出来ていることに気がつく。ファンシーショップか……いや、ハーブショップ?
茶の買い置きが切れていた事を思い出す。帰りにハーブティーでも買っていこうか。
パン屋の戸を開く。
「あ、美樹さん、いらっしゃい」
馴染みの店長が、声をかけてくる。
「あ、店長、ホットコーヒー頼みます」
いつもの。そして、一番奥の座り馴れた席へとショルダーバッグと身体をねじ込む。
わたしは、パン屋の中で交わされる会話をBGMに書物を開いた。世はなべて事もなし。
不観樹露生さんによる、狭淵美樹のモノローグ。内面を語りにくいエピソード形式では表現できない、美樹の心の動きを描写することで、人格を掘り下げています。エピソード608『暑い一日』、エピソード622『夏睡魔』あたりと関連してますね。
登場人物について、少々補足が必要かも知れませんね。本屋瑞鶴の女性の店員とは平塚花澄、周囲を春にする異能を持っていまして、夏には代用クーラーとして店長に活用されております。もうひとりの店員は店長にして花澄の兄です(名前は決まってなかったかも)。