さらさらと。
さらさらとススキの葉を揺らしてささやく風。
淋しさを呼ぶ秋風にのって、無数のとんぼが自在に空を舞う。
それはごく普通の光景。
悠が学校帰りに通る川沿いの細い道。
ススキであふれるここも例に漏れず、とんぼの天国。
青い胴体を持つとんぼがつい、と。
「あ……シオカラトンボ……」
空を滑るようにして河原に消えていく。
「東京にいた時はあまり見なかったなぁ……綺麗……」
なんともいえず、のどかな秋の夕暮れ時。
とんぼとススキに誘われて、悠は河原に分け入った。
川原には、道端よりも多くのとんぼが飛び交っていた。
虫取り網を振り回してとんぼ取りをしている子どもたちがいるほど。
ススキに止まってはさっと飛び立ち。
川面を撫でるようにして滑空し。
「きゃっ」
すぐ目の前をかすめていくものもいる。
近づくとすぐに飛び立ってしまうけど、群れ飛ぶとんぼを見るのは、秋を感じられて、気持ちがいい。
河原に座ってしばらくそんな光景を眺めていて。
「空が飛べるって……いいね……」
ふと、ぽつりともれた思い。
「いやなものから逃げられる……」
それは、羨望を含んだ言葉。
「好きなところへ行ける……」
そんなことを言っても何も変わらないとはわかっているけれど。
言わずにはいられなかった。
日が落ちかけて、夕闇がせまるころ。
「あ……帰らなくちゃ」
いつのまにか傍らに放り出してしまった鞄を拾って、家に帰るべく立ち上がった悠の視界のかたすみに、何かが入った。
「……とんぼ?」
それは、ススキの葉っぱに止まった1匹のとんぼ。
べつに、何も変わったところは無い。
「(……なんで気になったんだろう……)」
ちょっと顔を近づけて、仔細に観察する。
しかしとんぼは微動だにしない。
「……! このとんぼ……逃げない……飛べないの……?」
試しに、とんぼのほうにちょっと手を伸ばしてみる。
しかしとんぼは小さく震えてその目を動かすだけで、飛ぼうとしない。
よく見ると、羽根が不自然に曇り、曲がっている。とんぼを捕まえた時、皮脂のついた指で乱暴に羽根を持つと、よくこうなることを悠は知っていた。
「(さっきの子どもたち……かな)」
子どもたちを責めはしない。
悠自身、子どものころにはよくやったことだったから。
「小さなころにやったことを……こんなかたちで見せつけられるなんて……思わなかった……」
無邪気な残酷さ。
何とはなしにこみ上げる悲しみに、涙が頬を伝う。
さっきとんぼをうらやましく思ったことを恥じた。
「ごめんね……」
無意識のうちに伸ばした指先が、そっととんぼに触れる。
「……っ!」
触れた指先に、鋭い痛みが走った。
同時に、心にも。ずきんと響く痛み。
ぼろぼろの羽根がもたらす身体的な苦痛。
羽根を痛められたことによる悲しみ、憤り、絶望からくる精神的な苦痛。
「こんなに……苦しかったんだね……」
過ぎた日の過ち。それを正すことは誰にもできない。
できるのはただ悔やみ、償うことのみ。
悠にできるのは、走る痛みにかまわずとんぼを撫でることだけだった。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふと悠の手の中でとんぼが身じろぎした。
「……?」
かぶせていた手をどけてみる。
眼には生き生きとした光が宿り、羽根が細かに動いている。
「……もしかして……」
とんぼを止まらせた片手を最後の光が消えようとしている空にかざす。
羽根が動き、次の瞬間、とんぼはほのかな明かりの中に飛び立っていった。
「……ありがとう……そして、さようなら……」
1999年の秋のとある日、悠が学校から帰る途中。
小さい頃のとんぼ取りは、子どもの多くが経験しています。
けれど、それはとんぼたちにとっては苦痛なのではないでしょうか……。
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